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競技種目そのものに起因する不安感

投稿記事Posted: 土 12 24, 2005 11:45 am
by 親子でソフトテニ
今年中1になった長男が、数あるクラブの中でソフトテニス部に入りました。私自身も中学の時から現在も細々と続けており、最近はめっきり勝てなくなったものの学生時代はそれなりに活躍してきた(と思う)こともあり、うれしいものがあります。
 現在はボールを打たせてもらえるのがうれしくて、クラブに行くのが楽しくてしょうがないといった感じで、自主練習にも積極的に参加しております。彼が今後いつまでソフトテニスを続けるのかわかりませんが、彼らの将来を考えると、この競技種目そのものに起因する不安感が押し寄せてくるのを拒むことができません。
 それは、この種目がマイナーであるという事がその表面的な要因であると思うのですが、その背景にはソフトテニスSocietyの閉鎖性が見え隠れしております。以下にいくつかの例をあげてみます。
日本ソフトテニス連盟の活動が見えてこない
私のように、地区の連盟に登録して細々とプレーしている人間ですら、連盟は何のために存在して、何をしているのか、そしてその成果(選手の戦績ではない)はどうだったといった部分の情報開示がない。
競技人口を増やすための施策が見えてこない
競技人口については流行の問題もあるとは思いますが、この種目の魅力をアピールするような行為が見えてこないどころか、国際ルールのようにルールを複雑化してよりハードルを高くしていると思えてしまうような行為が残念である。また、高校までそれなりにプレーしてきた人が大学の体育会どころか同好会にも入る人がいなくなっていることも魅力をアピールしきれていないのことではないでしょうか。
制度面の閉鎖性
等級や審判の資格を有していないと試合に出場できないとか、服装、用具には公認マークが必要とか、最近はそうでもなくなったが、服装は「白」でなければならないとか(特にこれについてはその必然性が明確でないにもかかわらず、不必要にこだわりを持っている人も散見される)、こういった制度面の閉鎖性が競技に対するハードルをたか記しているのではないでしょうか。
プレーヤー自身の閉鎖性
全てがそうだとは思いませんが、私を含めて硬式テニスを意識してかどうしても両者を比較してしまい、やはりソフトテニスがいいと自己満足するといった事をやったことはありませんか?自己満足することもそうですが、それぞれが自由にスポーツを楽しむことを考えるとそもそも比較をすること自身がおかしいと思います。また、強い選手、有名な選手を見るときに誰それはどこの高校、大学出身だとかいったことをすぐ持ち出す。雑誌の記事にもそのような部分が見受けられる。出身校はあくまでも過程にしか過ぎないのに、かつ実力主義であるスポーツの世界にあたかも学歴社会のごとくエリートコースを定義づけてしまう。これなども閉鎖的な部分の一例ではないでしょうか。
他にもいくつか感じるところはあるのですが、感覚的かもしれない点もあり、これくらいにしておきます。

 結局何を言いたいのかというと、もし本当にソフトテニスの将来を考えるのならば、次世代をになう子供たちがプレーして楽しいスポーツにしていくことが大切で、そのためにも閉鎖性の打破、自由な雰囲気の創出、魅力のアピール等やらなければならないことはいくらでもあると思います。私ども個人もさることながら、やはり連盟等もこのあたりをもっと真剣に考えて、皆に意見を求めながら行動していくことが大切なのではないでしょうか。

  くしくも、水泳の千葉すず選手の選考過程の閉鎖性が一部の世論を賑わせており、もって他山の石とすべきところもありますね。
とは言いつつも、個人的には子供との会話のネタがひとつ増えて喜んでおります。

投稿記事Posted: 土 12 24, 2005 11:46 am
by webmaster
「競技種目そのものに起因する不安感」とありますが、非常によくわかります。そう考え同感されるかたはおおいのではないでしょうか。
閉鎖性についても、以前にこのクラブハウスで話がでましたが、ほんとなんとかならないものか、と思ってしまいます。