赤こうもり さんが書きました:よんせん さんが書きました:孝太 さんが書きました:その時の選手はテニスの選手としても「名誉」と「金銭」も手にしたでしょう。
だからなにも知らないで発言しちゃだめなんです。転向したのはオープン化以前のはなしで金銭は基本的にはからんでいません。つまり賞金大会ではないのです。
なるほど、そういうことなんだ〜。
熊谷選手や清水選手が求めたのは、名誉であり、世界一だったというわけですね。
その当時の時代背景を書いたあるサイトから抜粋を載せてみますね。
わが国のソフトテニスが全盛で、テニスはほんの一部の上流社会のスポーツにとどまっていた1900年初頭。慶應義塾大学テニス部が硬式採用を発表した。(1913年のことである。)当時シカゴ大学へ慶應から留学した三神氏が硬式採用を強く訴えたからだ。その理由は?「外国の運動を輸入しながら、外国と試合が出来ぬのはテニスばかりである。日本が世界に肩を並べる為には技を競い合うことから入るべきだ。軟球を使用していたのではだめだ。ただ安いから選んだだけの軟球とは訣別すべきだ。」慶応がこんな気風を生み出したのは、福沢諭吉の進取の精神と国際主義の教育理念に起因するようだ。一方で盛んになった軟式庭球派は「軟球世界統一論」を新聞などで報道し、外国に迎合することを非難した。
1920(大9)年に、三井物産カルカッタ支店にいた清水善造が単身、ウィンブルドンまで出かけて、オールカマー制の決勝(現行制度の準決勝)に進出。また、三菱合資会社ニューヨーク支店勤務の熊谷一弥が8月のアントワープ五輪で銀メダルを取り、同じく三井物産ニューヨーク支店にいた柏尾誠一郎と組んだダブルスでも銀メダルを獲得しました。これは日本五輪史上初のメダルという快挙でもありました。
その年の秋、当時、日本テニス界のパトロンというべき存在の実業家・朝吹常吉氏が夫人とともに外遊の途中、米国テニス協会(USTA)のジュリアン・マイリック会長ら幹部と懇談し、その折、強くデ杯戦への日本の参加をすすめられました。USTAの関係者は、日本人選手の活躍を知っていて、朝吹に助言したのです。
デ杯戦は国別対抗なので、国の窓口としての協会が必要です。日本には、まだ協会ができていませんでしたが、デ杯創始国でもある米国は、「書類上、役員組織さえ整えば、あとはなんとかするから」とまで、好意的に助言してくれ ました。そこで、帰国した朝吹は、学校やクラブの関係者と折衝を重ね、理事の頭数をそろえ、日本庭球協会を組織。推されて自らが会長となり、翌1921(大10)年2月、国際ローンテニス連盟(ILTF)に加盟を申請。米国の後押しで、その一員となることに成功しました(正式承認は1923=大12年3月)。
にわかづくりの日本協会はこの年、熊谷、清水、柏尾(柏尾は実質的にはマネジャー)のチームをデ杯に送り、このチームがインド、オーストラリアを撃破。チャレンジラウンド(現在のワールドグループ決勝)に進んで米国の王座に挑戦しました。
以上のようなことが書かれてました。
ここからはあくまで私の想像ですが、
1、時代背景から考えるとこの3選手はソフトテニス界とっては「裏切り行為」に近いのでは・・・・。
2、3選手とも当時は海外に在住しており、テニスをプレイしており海外の専門コーチがいる可能性が高い。
3、名誉と世界一と「日本にテニスを」強く訴えたかったのでは?
まあ私の勝手な想像ですから・・・。この3選手は日本テニス界の恩人?創始者?まあ歴史において忘れてはならない選手ですね。
私がソフトテニス界の「大先輩」と言うのは「ヘン」と答えたのは、当時は「軟式テニス世界統一論」等を唱えて、テニス界を排除しようとした団体が、「裏切り行為」に近い行動したこの3選手を今では「大先輩」と尊敬している。まあいいでけどね。