東京インドアと東レパンパシフィック その1

 東京インドアはもっとも観客のおおいソフトテニス大会である。これは今も昔もかわらない。昔はもっと多かった。古い雑誌(月刊軟式テニス、現在のソフトテニスマガジン)をみると、8000とか9000人なんて数字が書かれている。旧東京体育館の時代である。そのころソフトテニスはメジャースポーツでマスコミにも頻繁に登場していた、なんてことはいっさいなくて、今とかわらない。いや現在はテレビがあるので、むしろ昔のほうが悪いかもしれない。
 旧東京体育館は現在のよりすこしせまかったが、その分臨場感があった。ボールの音もインドアらしくよく響いた。ただ、冷暖房はなく、死ぬほど寒くて、毛布持参の人も多かった。その旧東京体育館最後の東京インドアで優勝したのは神崎・濱田組であり、当時のインカレチャンピオン。神崎選手はまだ2年生だった。1985年のことである。
 その前年の1984年大会は木口・横江が最後に優勝した年になる。決勝の杉本・佐藤戦のファイナルでの横江さんの三連続ポイントは忘れ難いスーパープレーだ。超満員の東京体育館がどよめきそして静まりかえった。あの異様な雰囲気はあれぎり、東京インドアでは、感じたことがない。木口・横江は最多の5回優勝。
 もうひと組5回優勝を達成した北本・斉藤が登場するのは1990年のことで、その年、たしか東京インドア初出場だった彼らは当時の天皇杯チャンピオン神崎・小野寺、そしてベテラン木口・木谷と同ブロックだったが(神崎・小野寺vs.木口・木谷も忘れ難いゲーム)、突破。そのまま優勝してしまう。北本選手は当時3年生、斉藤選手は4年生。北本・斉藤はその数カ月後におこなわれた北京アジア五輪国内予選を勝ち抜き初めて日本代表に。以後、ほぼ10年にわたり、代表をつとめることになる。そのころの東京インドアは新東京体育館建設中ということで駒沢体育館で開催されていた。東京オリンピックの施設だった同館は、これがまた凄い体育館で、なぜかハトがとんでたりする(現在は新しく建て直されている)。アクセスもあまりよくなかった。ただ狭いので臨場感は抜群。キャパは小さいが身の丈にあってたような気もする。
 新しい東京体育館は旧体育館や駒沢と違ってフローリング、つまり木床になった。このサーフェ−スはイレギュラーがおおい。イレギュラーがおおいとプレイヤーは集中が難しい。新館になっていいゲームがすくないのはここに大きな原因があるのではないか?新館に移ってすぐはカーペットを敷いていた(東京体育館所有のカーペットコート)。そこでは上松・大橋vs.北本・斉藤という大試合があった。見栄えという点からでもカーペットを敷くのがのぞましいし、ボールも実際に見やすい。四月の女子選抜では敷いている。ぜひ東京インドアでも早期に実現してほしいものだ。
 旧館や駒沢では臨場感があったと書いた。新館にはそれがない。体育館がおおきすぎるのか?それもあると思う。インドア特有の打球音の増幅もあまりない。でもそれだけではない。東京体育館で同じ1月に開催されるPPO(東レパンパシフィックオープン)などは見事な臨場感を獲得している。こころみに東京インドアを観戦されたかたはPPOにも足をはこんでみられるとよい。本大会は入場料をとられるが直前の予選なら無料である。予選といってもPPOはティアワンであり、しかも本戦のエントリー数が絞られているので、カットオフがめちゃくちゃに高く見ごたえがある。2,3年まえにはあのミスキナを予選でみたことがある。当時ランキング急上昇中だった。(続く・・・







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