本格国際大会史は1950年代に始まる
ソフトテニスの本格的な国際大会が始まったのは1950年代のことになる。日本、韓国、中華民国(台湾)の3カ国対抗をアジア選手権として1956年に第一回が台北市で開催され、以降2年ごとに3カ国持ちまわりで9回開かれた。
この大会が1973年より始まった世界選手権の前身となる。
その最初の四半世紀、男子は日本が強かった。(両大会合わせて)12回の内、タイトルを落としたのは1965年の第5回アジア選手権個人戦だけ。実は1971年の第8回アジア選手権で台湾に4−5(5組殲滅)で敗れているが、3つ巴で日本が優勝となっている。このことからもわかるように決して日本が飛び抜けて強かったわけではないようだが、少なくとも記録の上では常勝日本、といえるだろう。
最初の四半世紀は韓国が圧倒 女子
2強といいたいところだが、個人戦はなんと韓国が9回、日本が2回と完全に圧倒されていた。日本は1958、1960年と最初の2回の優勝しただけで20年間個人で勝つことができないという異常事態だった。
日本の巻き返しがスタート
1980年代に入って日本の巻き返しがスタートする。
国際大会をめぐる状況、ナショナルチームのあり方も今とは全く違うが、危機感があったのは当時の資料からもうかがいしれる。
もっともこの頃は国際普及への夢が膨らんだ時代でもある。1970年代の末から始まった欧州や米本土、アフリカ大陸への普及団の派遣、1985年には世界選手権となって初の日本開催、実に16年ぶりのことだった。さらに中国大陸への進出、これが1990アジア競技大会(北京)に公開種目ながら初参加と快挙につながる。
1988年にはアジア競技大会参加を睨んで第一回アジア選手権が名古屋で開催されている。
80年代の世界選手権は計4回、団体はすべて日本が優勝、個人も3勝、団体は1991年にも勝って5連覇、これは女子の最高記録である。特に1987年と1991年大会はともにソウルで開催され、使用球も韓国ボールだけに韓国としては屈辱的な敗戦だったであろう(男女で完全に明暗がわかれた。これはこの時代を通していえることだ。女子の黄金期は同時に男子の暗黒時代でもあった)。
黄金の十年の棹尾を飾る・・・ビッグタイトルを総ナメ
先ごろ急逝された文違菊代さんの登場に始まる日本女子黄金の10年間、そのしんがりを務めたのがこの動画の徳永佳代(東芝姫路)さんだ。
1988年のアジア選手権(名古屋)が国際大会初登場、1990アジア競技大会(北京)で団体優勝。
翌1991年世界選手権で団体個人(徳永・定本)に優勝。日本の団体5連覇、個人3連覇を達成し、王座を守り抜いた。
以後、日本の世界選手権での団体優勝は、現在にいたるまで、無い(韓国が三回、台湾が一回)。
そのシーズンを限りに引退。
豪快そのもののビッグフォアハンド
この動画でのプレーは1989年皇后杯(岡山)で準優勝したときの決勝での一打(vs.宗盛・干場)。
見事なトップ打ちである。豪快そのもののビッグフォアハンドである。
岡山大会はアウトドア(クレー)での開催だが、日没のため女子決勝だけ隣接する体育館でおこなわれた(当時の全日本は二日間の日程で開催され、しかもいまとほぼ同規模のドローを消化したので運営はたいへんだったのである)
皇后杯には翌年の黒磯大会(これは雨天でやはりインドアとなった)で徳永・定本で優勝している。
主な戦績
- 1990アジア競技大会 国別対抗団体 優勝、個人戦 準優勝(徳永・小林)
- 1991世界選手権 国別対抗団体戦 優勝 個人戦ダブルス 優勝(徳永・定本)
- 1990皇后賜杯全日本総合選手権優勝(徳永・定本)
- 1989−1992全日本インドア4連覇(1989、1990徳永・岡村。1991、1992徳永・定本)
- 1990全日本社会人優勝(徳永・定本)
こちらの記事もどうぞ(関連記事)
コメントをどうぞ
Powered by Facebook Comments