インドア大会の本命といえば例年新春に開催される全日本インドア(通称大阪インドア)である。
21、22年とコロナの影響で中止となったのは残念至極だが、2020年で65回を数え、何度も書いてきたように最古、そして最高権威、あまたあるインドア大会で唯一の公式戦(つまり日連主催)でもある。
第一回は昭和31年(1956年)1月22日、戦後丸10年が経過したところである。
昭和27年に完成した大阪府立体育館(難波 現エディオンアリーナ大阪)がその会場であった。ちなみに硬式テニスの島津全日本室内テニス選手権大会は1965年開始なので9年先んじていることになる(全日本室内テニスもここ2年開催できず)。
日華親善軟式庭球大会
東京では今は無き田園コロシアム(田園調布 1989年閉鎖解体)が使用されている。
大阪大会(6月12、14日)は前年に完成した大阪府立体育館が会場となった。
この大会の成功が全日本インドア創立の足掛かりとなったのである。
ちなみに親善大会は東京、名古屋、大阪、岡山で開催されてそれぞれ各地区の代表と対戦している(東京、名古屋、大阪では学連選抜とも対戦)。いずれも7組の殲滅戦で中華民国の5勝3敗。
天皇杯チャンピオン熊埜御堂・鳥井が第一回を制す
さて全日本インドアの第一回だが、今と違って男子のみの開催(壮年と女子のエキシビションを挙行)、現在と同じようにその年度のランキング選手を中心に、学生、地元大阪から16組選抜。
第一回の優勝はレジェンド中のレジェンド熊埜御堂・鳥井(松庫商店 天皇杯優勝ペアでもある。つまり第一シードであるのだが、なぜかAブロック二番におかれている。ちなみにAブロック一番の望月・加藤(法政大)はインカレチャンピオン。ちなみに望月氏は昭和27年のインハイチャンプ(新宮高)、22、23年のインハイチャンプである鳥井氏とほぼ同郷)。
このペアで翌年も優勝。驚くべきは熊埜御堂さんの年齢で1913年(大正3年)の生まれで当時42歳である。
全盛期は戦前にあり昭和13年に全日本初優勝、以後戦前3回(1935、1940、1941)戦後2回(1953、1955)、日本一獲得。(天皇杯が下賜されたのは戦後)
鳥井氏は25歳、戦後初のインターハイ2連覇(木本高)、インカレ二度の個人優勝(日大)、その他どの大会のチャンピオンロールにもその名を残し、史上最強前衛の誉れが高い。
二位の石橋氏は当時なんと47歳(戦前、戦後にわたり全日本に優勝)、ペアの渡瀬氏は33歳。三位藤田・武田は23歳、26歳の若手ペア。。六島・川口も26歳、24歳のペア。この極端な年齢分布には多分に大戦の影響が感じられ暗然たる気持ちになる。
昭和31年は飛躍の年か?第一回アジア選手権大会も開催
昭和31年(1956年)というのは重要な年で全日本実業団もこの年にスタートしているし、なんといっても秋には日本、韓国、中華民国(台湾)の3カ国対抗による第一回アジア選手権大会(世界選手権の前身)が台湾で開催されている。
アジア選手権大会は台北(クレー)で団体戦、台中(ハード)で個人戦が開催、大会終了後も代表対は彰化、嘉義、台南と南下し親善試合、各地おおいに盛り上がった。
第一回全日本インドアのベスト4はすべてアジア選手権日本代表で占められ誠に順当な結果といえるだろう(むろんこの時点では代表は決定していないが)。二位の石橋氏そのアジア選手権で主将をつとめた。三位藤田・武田が第一回アジア選手権の個人戦に優勝することになる(4年後の第3回大会でも優勝)。熊埜御堂・鳥井は個人戦三位。団体戦は日本が制した。
アジア選手権はその後、1973年まで2年ごとに9回開催され、1975年に世界選手権として生まれ変わることになる。
(2020年2月に公開したものに若干の加筆)
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