2004年から2006年にかけての3年間は、国際大会でハードコートが続いた時期だった。雨の影響で団体決勝のみハードへと変更された2003年世界選手権を含めると、この期間に争われた男子10タイトル(ミックスを除く)のうち、実に8つを台湾が手にしている(ダブルス2、シングルス3、団体3)。
2003年大会を端緒とするダブルフォワードの台頭。そして天候のアクシデントも含めてハードコートが連続した展開には、単なる偶然とは言い切れない何かを感じさせる。なぜなら、このわずか3年間でソフトテニスという競技は、不可逆的な変容を遂げてしまったからだ。
混沌を極めた2000年代中盤の象徴が、2006年のドーハ・アジア競技大会だった。
大荒れの代表選考・・・
韓国、台湾ともに国内予選は大荒れとなった。台湾では絶対的エースの方同賢がまさかの予選落ちを喫し、韓国ではユウヨンドンの電撃復帰の裏で、本来の本命ペアたちが軒並み討ち死にしていった。

しかし、当時の両国が近年で最も層の厚い時代であったこともまた事実だ。少なくとも私が見る限り、当時のコートには過剰なほどの活気が満ちていた。あの国内予選で見られた大混乱も、溢れんばかりの層の厚さゆえに起きた現象だったのだろう。
当然、両国の連盟は選抜方法に頭を抱えることになる。「日本のような(恣意的な)推薦選抜にできればいいのだが、我が国では到底許されない」――当時、双方の連盟関係者が異口同音に漏らしていた本音が、この時代の熱量と混迷を物語っていた。
悲願の初優勝
そして迎えたドーハの本番、日本が最初の種目である男子団体戦で悲願の初優勝を果たす。予選ラウンドで台湾に敗れたことを伏線に、決勝では絶対的ペアの中堀・高川をあえて3番に下げるという大博打を打ち、見事に金星を獲得した。
大会最終日、ダブルスではミックスダブルスで復調したユウヨンドンが、自身3度目となるアジア大会決勝のコートに立つ。相手は準決勝で中堀・高川をファイナルで破った台湾の楊勝發・李佳鴻。激闘の末、ここもファイナルで辛勝した台湾ペアが「台湾革命」の最後を華々しく飾ることとなった。

重厚な名勝負であった。しかし、試合続行すら危ぶまれるほどの雨に見舞われたこの一戦は、「残念」という言葉だけでは片付けられない不条理さを残した。同時進行だった硬式テニスが試合を中断し、雨が上がった深夜に消化したのとは実に対照的だった。
この時期には滅多に雨が降らないと言われていたドーハ。開幕日の洪水を含め、現地の人々すら驚いた気象異変の影響を最も受けたのは、ほかでもないソフトテニスだったのではないか。

もしも、いつもの乾いたドーハであったなら――あの1998年バンコク大会を彷彿とさせる、いや、それを凌駕するほどの歴史的パフォーマンスを目撃できていたのかもしれない。今思えば、アジア大会からダブルスが姿を消していく未来へとつながる「呪い」は、すでにあの雨のコートから始まっていたのだろう。
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